【トキノミノル】完全無欠の幻の馬

keiba6 競馬

7つのレコード、幻の馬トキノミノルの馬生

keiba(当歳時)
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)

府中にある馬の像

東京競馬場のパドックの近くにある1頭の競走馬の像がある。
東京競馬場へ足を運んだ事のある人は、ご存知のだろう。
その像に書かれている馬名は、“トキノミノル”

生涯無敗、7つのレコードなど多くの伝説的記録を残した事から、幻の馬として現在も語り継がれている。

今回は、そんな幻の馬と呼ばれたトキノミノルがどの様な馬生を歩んだのか、見ていきましょう。

トキノミノルの誕生

幼名はパーフェクト

1948年5月2日、北海道にある本桐牧場にて誕生した。
父セフト、母第二タイランツクヰーン、母父Soldennisである。
仔馬時代の名はパーフェクト

父セフトは当時のリーディングサイアーであったものの、短距離向きの血統として見られていた為、パーフェクトを買う者がなかなか現れなかった。

後に調教師の田中和一郎が、永田雅一(大映社長)にすすめる形で購入された。
しかしその後、永田雅一は競走馬名を決めておらず、幼名のパーフェクトとのままデビューする事になった

圧巻のデビュー戦

勝利で評価が変わった

パーフェクトのデビュー戦は、1950年7月の函館だった。

しかし2日前に気性の荒さを見せてしまい、出走登録を拒否されるも、クリフジの馬主として知られる栗林友二の説得で無事デビューを果たす。

デビュー戦は僅か3頭立てのレースで、パーフェクトは2番人気。
1番人気のオッズが圧倒的だったのだ。

スタート前に気性の荒さ見せてしまい、騎手岩下密政を振り落とした。
いざレースになると、先程の気性の荒さが嘘の様に、2着に8馬身もの差をつけて圧勝した。

走破タイムは48秒1であり、これは800mの日本レコードであった。
デビュー戦からレコードタイムを叩き出した。

馬名をトキノミノルに

デビュー戦勝利後に田中和一郎調教師が永田雅一に報告をしたが、永田雅一は購入した事を忘れていたそうだ。
その後、永田雅一が厩舎に足を運んだ際、馬名を”トキノミノル”に変更する事にした。

次走からトキノミノルとして、馬場を駆け抜ける。

レコードタイムの嵐

keiba(ターフ)
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)

ダートでも強かった

トキノミノルは2戦目、3戦目にダートを使った。
2戦目では2位とと1/2馬身差だったものの、3戦目は2着に10馬身以上の差をつける大差で勝利。
3戦目の1200mで早くも2つ目のレコードタイムを出した。

負け知らず

4戦目以降は、芝コースに絞り現役を続けた。
4戦目の1000m戦、5戦目の1100m戦をどちらもレコードタイムで勝ち上がる。

6戦目には朝日盃3歳ステークス(現:朝日杯フューチュリティステークス)に挑み、レコードタイムとはならなかったが、ここでも勝利を飾った。

7戦目と8戦目は共に1800m戦であり、7戦目にレコードタイムで勝利。
8戦目も勝利したが、前走の7戦目に記録した自身のレコードタイムに挑むレースとなった。
7戦目は1分51秒2(1800mレコード)であり、8戦目は1分52秒4であった。

無敗の皐月賞馬

大舞台で

8戦無敗で迎えた皐月賞。
トキノミノルは単勝オッズ1.1倍という圧倒的な支持を集め断然の1番人気
大舞台でもいつも通りの競馬を見せ、2着に2馬身差をつけてゴール板を駆け抜けた。

勝ちタイムは、2分3秒0
またしてもレコードタイムを記録したのだ。

無敗の二冠馬

脚部の不安と東京優駿

皐月賞後にトキノミノルは、右前脚に裂蹄を生じた
その影響からかトキノミノルは右前脚を庇っていた為、左前脚が腫れ上がってしまったのだ。

永田雅一はダービーの辞退も考えていたが、段々と状態が良くなり晴れて出走を決める。

レース当日は脚部の不安により少し評価を落としたが、1番人気でレースを迎えた。

レースではスタートで出遅れる形となる。
道中は中団の前目を追走、やがて向正面中間で外から一気に交わし先頭に躍り出る。
その後は先頭を譲る事なく、2着に1と1/4馬身差、2分31秒1のレコードタイムで、無敗の二冠馬となった。

クリフジ以来の無敗の二冠達成。
無敗での皐月賞とダービーの二冠達成は、トキノミノルが史上初だった。

クラシック三冠最終戦、秋の菊花賞を勝ち三冠馬となれば、米国遠征も視野に入っていた。

トキノミノルの最期

keiba(お別れ)
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)

破傷風により死亡

ダービー制覇の数日後に体調を崩したトキノミノルはその後、目の充血が発覚し治療が施された。

さらに歩き方に異常が見られ、やがて音などに対して敏感になった為、破傷風が疑われた

その後、僅かながら症状は回復したが容態が急変し、破傷風による敗血症で死亡した。

幻となった無敗の三冠馬

現役を続けられていたら、史上初の無敗の三冠馬になっていた可能性は大きかっただろう。
三冠馬は誕生するが無敗での制覇は険しい道のりだった。
その後、初の無敗の三冠制覇はトキノミノル没後33年経った1984年にシンボリルドルフが達成した。

10戦無敗、うち7戦でレコード。
これだけでもトキノミノルの強さが分かる。
トキノミノルは、戦後の中央競馬において、10戦以上出場した競走馬で唯一の無敗馬である。

さいごに

今回、戦後の中央競馬において”幻の馬”と言われ、圧倒的な強さを誇ったトキノミノルについてまとめた。

もしかしたら、日本最強馬はトキノミノルなのかもしれない。
誰しもが無敗の三冠達成の夢が現実になる事を期待していたに違いなかっただろう。

何より種牡馬として彼の血を引く競走馬が居ない事が、日本競馬界において大きな損失だ。

トキノミノルの情報

1948年5月2日生
1951年6月20日没 3歳(旧 4歳)

父セフト
母第二タイランツクヰーン
母父Soldennis

[生産者]
本桐牧場

[馬主]
永田雅一

[調教師]
田中和一郎

[厩務員]
村田庄助

[競走成績]
10戦10勝

[主な勝ち鞍]
1951年 皐月賞、東京優駿

[獲得タイトル]
1984年 JRA顕彰馬

(参考:Wikipediaより)

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