ハイセイコーと競馬ブーム
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)
70年代の競馬界をを魅了した
競馬ファンになるきっかけになった競走馬は、オグリだったり、ディープだったり…と人それぞれだろう。
長年競馬を愛する人は、ハイセイコーから始まったと語る人も多いはず。
これまでに多くの競走馬が走り、今がある競馬界。
その長い競馬史において、ご存知ハイセイコーは70年代に一大競馬ブームを巻き起こした。
そんな彼の白いメンコに秘められた素顔とは…。
この世に生を受け、燃え尽きるまでを振り返り、彼の溢れんばかりの偉大な足跡を見ていこう。
※一ファンの目線での記事になります。
物語は地方から
立役者は地方所属だった
ハイセイコーは元々中央所属ではなく、地方所属の競走馬だった。
1972年7月12日大井競馬場にてデビューしたハイセイコーは、1番人気に支持されてレースに向かった。
デビュー戦、何が起こるか分からない初めての舞台で、2着に8馬身差を付け堂々たる白星スタート。
レコードタイムを出し、華やかに現役生活の幕を開けたのだ。
なお、このレースで初めて1000mを1分で走破した競走馬となった。
その後6戦目の青雲賞(重賞)まで大井に所属し、いずれのレースも7馬身差以上を付ける圧勝劇で負け知らず。
早くから敵無しの飛び抜けた存在であった。
1973年、これまで地方所属だったが、中央へ移籍する。
鳴物入り、地方の怪物
ビッグレースの中央初戦
ハイセイコーは、中央所属となる為、(株)王優からホースマンクラブへと所有者が変更となった。
中央所属となったハイセイコーの初戦は、弥生賞だった。
弥生賞と言えば、現在では皐月賞トライアルとしても知られる、中央所属でも猛者が揃うレースである。
弥生賞からハイセイコーは、引退レースまで全てに騎乗する事となる増沢末夫を背に、前戦まで地方所属でありながら、単勝1.1倍の1番人気に支持された。
弥生賞本番では、好スタートを切ったハイセイコー。
道中は4番手をキープし、残り600mで3番手に浮上すると、直線に入りスパートをかけた。
ゴール直前で先頭を走っていたニューサントを交わし、中央の猛者もなんのその、見事中央初戦を勝利で飾ったのだ。
(実はレース開始前にファンの歓声で入れ込んでしまったというエピソードもある)
その後、現:皐月賞トライアルの1つである、スプリングステークスに出走。
当レースでは、前走の弥生賞よりも早い段階で先頭に立つと、2着に2 1/2馬身付けて快勝した。
そして、ハイセイコーは人気と勢いそのままに皐月賞へ。
八大競走への挑戦
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)
無敗の皐月賞馬へ
デビューからここまで負け無しのハイセイコー。
次なる舞台は、八大競走の1つ皐月賞であった。
彼にとっては初めての2000m。
初の2000mでありながら、当日は重馬場。
しかし競馬ファンの期待は大きく、皐月賞でも1番人気に支持されたのだ。
恐らく、目に見える不安は無かったのだろう。
レースではスタート後、正面スタンド通過時には中団を追走、向正面に入ると3番手に浮上していた。
第3コーナーで早くも先頭に立つと、その後も他馬を寄せ付けず、2着馬に2 1/2馬身差で快勝。
無敗の皐月賞の栄冠を手にした。
全てのホースマンの夢
無敗の二冠挑戦
無敗の皐月賞馬となったハイセイコーは、世代の頂点を決める日本ダービーへ出走する。
東京競馬場を走ったことが無かった為、前走で同じく東京競馬場開催のNHK杯に出走し勝利。本番へ弾みをつけた。
デビューから10戦負け無しの皐月賞馬への期待は大きく、ダービーでも1番人気に支持された。
ハイセイコーにとっては初の2400m、経験したことの無い距離だった。
好スタートを切ったハイセイコーは、道中10番手あたりを追走。
この日も第3コーナー付近に差し掛かると、先頭集団へその馬体を押し上げて行った。
最後の直線で1歩リードかと思ったが、外から来たタケホープとイチフジイサミに離されて3着となった。
ハイセイコーは11連勝とはならず、初めての黒星を喫したのであった。
無敗での二冠達成とはならなかった。
挽回の秋
続く京都記念では、スタート直後から上がり3番手を追走し、直線で大外一気でゴール板を駆け抜けようとするも届かず 2着であった。
菊の舞台で二冠へリベンジ
クラシック三冠最終戦の菊花賞にも挑んだハイセイコー。
日本ダービーを制したタケホープも出走する中で、1番人気はハイセイコーだった。
タケホープは、京都記念の着順の影響もあってか6番人気。
3000mの長丁場、ハイセイコーはいつもよりも早めに先頭に躍り出ると、直線で一気に後続を引き離した。
そのままゴール板を駆け抜けると思われたが、大外から1頭もの凄い脚で伸びて来た。
ダービー馬タケホープだった。
ハナ差の決着となった菊花賞を制したのは、タケホープだった。
両馬とも譲らなかった、譲れなかった。
この勝利でタケホープは、ダービーと菊花賞の二冠に輝いたのだ。
古馬戦線とラストイヤー
苦戦、そして復活へ
菊花賞でハナ差の2着に惜敗後、4歳最後のレースとして有馬記念に出走。
初めて古馬と対戦するハイセイコーだったが、歳上の馬に引けを取らない走りで3着と好走した。
年が明けて自身も古馬となったハイセイコーは、1月末にAJCCに出走した。
1番人気に支持されたものの、結果は自己ワーストとなる9着。
初めて着外となった。
ここで勝ったのは、昨年二冠馬となったタケホープだった。
※馬齢は旧表記
その後、中山記念に出走するとその走りが復活。
前年5月に行われたNHK杯以来の勝利を飾る。
春の天皇賞では6着に敗れたものの、宝塚記念と高松宮杯で再び復活、2連勝を挙げた。
しかし、この高松宮杯の勝利が現役最後の勝利となった。
秋初戦は京都大賞典に出走し4着、続くオープンで 2着となった。
そして、暮れの有馬記念でラストランを迎える。
競馬ブーム立役者のラストラン
有馬記念では、ハイセイコーと共にタケホープもラストランとなった。
スタートを切ると先頭に並びかける勢いで、3番手のポジションをキープしながら、1回目の正面スタンドに現れた。
道中、どこで仕掛けるのか、どこで仕掛けられるか…。
ラストランの2500mの中で、立役者の最後の戦略が繰り広げられていたに違いない。
ハイセイコーは、先頭を走っていたタニノチカラに最後コーナーで並び、交わす体勢で直線に入ると、なんとタニノチカラがさらに突き放しにかかった。
ハイセイコーとの差がみるみると広がった。
5馬身開いていた。
第一次競馬ブームの立役者のラストランは 2着であった。
ハイセイコーのクビ差の3着にタケホープが入った。
決して力が無くなかった、歳だという感じは無いように見えた。
この有馬記念を最後に、第一次競馬ブームの立役者であるハイセイコーはターフに別れを告げた。
引退後のハイセイコー
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)
人気は健在、そして彼の継承者たち
引退後も人気は健在であり、多くのファンが会いに来ていた。
種牡馬としても多くの重賞勝利馬を輩出。
特に、初年度産駒のカツラノハイセイコは、父が成し遂げられなかった日本ダービーを勝利。
その後、天皇賞(春)にも勝利した。
エリザベス女王杯を勝ったサンドピアリス
父と同じ皐月賞を勝ったハクタイセイ
などもいる。
母父としては、朝日杯3歳ステークスの勝利馬マイネルマックスがいる。
ハイセイコーとタケホープ
同期の2頭は、9レースで対決をしている。
ハイセイコー | タケホープ | |
弥生賞 | 1着 | 7着 |
東京優駿 | 3着 | 1着 |
京都新聞杯 | 2着 | 8着 |
菊花賞 | 2着 | 1着 |
AJCC | 9着 | 1着 |
中山記念 | 1着 | 3着 |
天皇賞(春) | 6着 | 1着 |
オープン | 2着 | 5着 |
有馬記念 | 2着 | 3着 |
先着した回数はハイセイコーが僅かに1レース上回るが、タケホープは先着したレースで全て1着となっていた。
さいごに
今回は第一次競馬ブームの立役者として、多くの競馬ファンに愛されたハイセイコーの生涯をみてみた。
過去の映像やエピソードを観ると、戦術や同期との対戦に改めて魅了された。
文句無しのアイドルホースだった。
引退後には、曲『さらばハイセイコー』が発表され、ハイセイコーの中央初戦から引退まで騎乗した増沢末夫が歌った。
また、その偉大な功績から大井競馬場で開催されていた青雲賞は、2001年からハイセイコー記念に改称された。
ハイセイコーの情報
ハイセイコー(牡馬・鹿毛)
1970年3月6日生
2000年5月4日没 30歳(旧31歳)
父チャイナロック
母ハイユウ
母父カリム
[生産者]
武田牧場(北海道新冠町)
[馬主]
株式会社王優→ホースマンクラブ
[調教師]
伊藤正美(大井)→鈴木勝太郎(東京)
[調教助手]
鈴木康弘(東京)
[厩務員]
山本武夫(大井)→大場博(東京)
[競走成績]
22戦13勝
(地方)6戦6勝
(中央)16戦7勝
[主な勝ち鞍]
1973年 皐月賞(八大競走)
[タイトル]
1973年 優駿賞大衆賞
1984年 JRA顕彰馬
2000年 NARグランプリ特別表彰馬