【テスコガビー】その速さは常識を覆した

競馬

これまでの価値観を変えた名牝

keiba(当歳時)
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)

常識は覆された

1972年4月14日、北海道にある福岡牧場で1頭の牝馬が誕生した。
名種牡馬テスコボーイを父に持ち、母キタノリュウ、母父モンタヴァルという血統。

彼女の登場により、これまでスタミナ優先だった日本の競馬をスピード優先に変え、そして血統の価値観をひっくり返した

その彼女の名は、テスコガビー

後に誕生する名馬及び名種牡馬のサンデーサイレンスと同等の影響力があったと言われている。

今回は常識を覆した名牝テスコガビーを見ていこう。

父は名種牡馬

4度のリーディングサイアー

テスコガビーを語る上で、まず父のテスコボーイについて紹介しよう。

ご存知テスコボーイは70年代を代表する種牡馬であり、74年・75年・78年・79年の計4度リーディングサイアーに輝いている。

テスコボーイ産駒として有名な競走馬として、顕彰馬にもなったトウショウボーイ、二冠馬のキタノカチドキを思い浮かべるだろう。

テスコガビーと菅原泰雄

keiba(競馬場)
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)

新馬戦から桜舞台前

テスコガビーも当然デビュー戦として新馬戦に出走したのだが、この新馬戦は後の活躍を予感させるレース内容だった。
良馬場の府中で行われた1200mのスプリント戦を7馬身差で圧勝したのだ。

手綱を取った騎手菅原泰雄は、最後のレースまでテスコガビーと共にターフを駆ける事になる。

その後、4連勝。
特に3戦目の京成杯3歳S(現:京王杯2歳S)では、稍重の馬場ではあったが、4馬身差のレコード勝ちを収めた。

5戦目として東京4歳S(現:共同通信杯)に挑んだテスコガビーは、初めて敗北を喫する事になる。
後の皐月賞・ダービーの二冠馬となるカブラヤオーのクビ差の2着だった。
因みにテスコガビーの鞍上である菅原泰雄は、この日の勝利馬カブラヤオーで皐月賞・ダービーを制する。

そして、阪神4歳牝馬特別(現:フィリーズレビュー)でレコードで勝利し、桜花賞へ弾みを付けた。

着差1.9秒の桜花賞

keiba(ターフ)
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)

『後ろからはなんにも来ない』

単勝1.1倍の圧倒的1番人気で桜の舞台を迎えたテスコガビーは、スタート直後から馬体を猛烈に押し上げ、すぐさま先頭へ躍り出た。
向正面でさらに2番手以下との差を広げて行くと、最後の直線、差が詰まるどころか、差をどんどん広げて圧勝した。

2着との着差は1.9秒。

歴代桜花賞の実況の中でも、最も有名であろう杉本清アナの台詞。
『後ろからはなんにも来ない』
と3度も繰り返した。
この台詞はテスコガビーの異次元の強さを意図も容易く表現している。

それもそのはず。
掲示板に表示された2着との差は “大差” 、つまり10馬身以上の差を付けて勝利を収めたからだ。

※杉本清アナはこの実況に関して、『失敗した』と思っていたが、予想に反して好評だった

走破タイムの1分34秒9は当時の桜花賞レコードであり、コースレコードにはコンマ1秒届かなかった。

優駿牝馬、圧勝劇

この日も先行

圧勝した桜花賞の3週間後に、オークストライアルの4歳牝馬特別(現:フローラステークス)に出走するも3着に敗れる。

その不安からオークスでは桜花賞よりもオッズを落とす事になったが、単勝2.3倍の1番人気だった。

当レースでは、いつも通りスタートから先頭へ躍り出ると、向正面に入る辺りでは5馬身ほど差を付けていた。
向正面中間を過ぎた辺りから、並ばれ一瞬先頭を譲る形となるも、再びリード。
リードしたまま最後の直前に入ると、後続と再び差を広げる。

前走の成績から不安はあったものの、終わってみれば7馬身差で圧勝し、二冠牝馬となった。

"四冠"ジョッキー

テスコガビーの主戦騎手菅原泰夫は、オークスの翌週の日本ダービーでも勝利。

菅原泰夫はこの年、カブラヤオーで皐月賞と日本ダービーのクラシック二冠を、テスコガビーで桜花賞とオークスの牝馬二冠を制し、騎手として春のクラシック"四冠"を達成した

ガブリエル"ガビー"

優駿牝馬勝利後の写真撮影で、テスコガビーに跨る騎手菅原泰夫の前に少女が共に映っている。

少女は、テスコガビーの馬主である長島忠雄の隣家に住んでいたスイスの貿易商の娘であり、名をガブリエル・シャーチ
テスコガビーは、父テスコボーイと少女ガブリエルの愛称"ガビー"から名付けられた。

1年の休養と復帰戦

続く怪我と休養

オークスから4ヶ月後にゲートの練習中、右前球節挫創で重傷を負い、9針を縫った。その1ヶ月少し後の調教中に右後脚を捻挫。
テスコガビーは、1年の休養を余儀なくされた。

復帰後に見せた姿

オークスで二冠を達成してから、約1年後に府中で行われた5歳以上オープンで復帰。
しかし闘志は失われ、11頭立ての6着と彼女とは思えない結果となった。

その後、右前脚のトモを痛め再び休養に入る。

最期

keiba(お別れ)
※画像はイメージです。(Canvaを使用した執筆者本人による作品)

悲劇は突然やって来た

休養に入って直ぐに引退を考えられたが、現役を続行。
引退した場合、渡米して繁殖入りする案もあった。

復帰の為に順調に調教を進めていた時、突然前方に転倒した。
前脚の故障かと思われたが、獣医の診断結果は心臓麻痺だった。
テスコガビーは、既に死亡していた。

その後、簡素な小さな墓に埋葬された。

復帰どころか繁殖牝馬になる事も叶わなかった。

さいごに

テスコガビーは、後にアメリカで誕生するサンデーサイレンスに匹敵する程、競馬界に衝撃を与えた存在だったと言われている。

競走馬としても種牡馬としても大成功を収めたサンデーサイレンスに例えられたのなら、繁殖牝馬として彼女と同じく速く強い産駒が誕生しただろう。

怪我が無く、4歳の歳を走り切れていたら、翌年の5歳の時の悲劇は起こらなかったかもしれないと考えてしまう。

テスコガビーの情報

テスコガビー(牝馬・青毛)
1972年4月14日生
1977年1月19日没 5歳(旧6歳)

父テスコボーイ
母キタノリュウ
母父モンタヴァル

[生産者]
福岡巌

[馬主]
長嶋忠雄

[調教師]
仲住芳雄(東京)

[競走成績]
10戦7勝

[主な勝ち鞍]
1975年 桜花賞(八大競走)、優駿牝馬(八大競走)

[獲得タイトル]
1974年 優駿賞最優秀3歳牝馬
1975年 優駿賞最優秀4歳牝馬

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